生まれ育った秋田を制作拠点として活動する画家。秋田公立美術大学にてフィールドワーク*1について学んだのち、マタギ*2文化に出会う。自らも狩猟免許を取得し、主に東北のマタギ文化や釣りに関わりながら、日々の暮らしの中で出会った人や生き物、自然との関わり合いを主題とした生き物の記憶や記録の継承に実践的に取り組んでいる。その中で素材としての生き物にも着目し、熊から抽出した膠*3や、血液から精製した青色顔料「プルシアンブルー」を用いた絵画制作にも取り組んでいる。
*1フィールドワーク
特定の視点から物事を観察し、現地に赴いて経験を記述する行為と研究のこと。フィールドワークの起源は民俗学の調査であり、「見る」「体験する」「記録する」この3つのキーワードが重要となる。近年ではアートの世界にも応用が広まり、幅広く認知が進んでいる研究分野である。[参考:artscape「Art words」 https://artscape.jp/artword/6649/]
*2秋田県の阿仁マタギが発祥とされ、東北・北陸・北関東などの山深い地域に広がってきた狩猟者集団。伝統的な狩猟方法や独自の山の神信仰を受け継ぎながら、四季を通じてクマをはじめとする山の恵みをいただき、それらを平等に分け合ってきた。[参考:「孤高の民・マタギ/山の神の恵み」グリーン・ツーリズム総合情報サイトhttps://www.akita-gt.org/data/bunka/matagi/matagi-01.html/https://www.akita-gt.org/data/bunka/matagi/matagi-03.htm]
*3膠
膠(にかわ)は、古くから古代壁画や原始絵画に使用され、現在でも画面と絵具を接着するものとして重要な素材である。原料は動物の骨、皮、腸、腱であり、それらを煮出し、コラーゲンという繊維質の高タンパク排出液を濃縮し、固め、乾燥させて造られる。顔料や岩絵具などと混ぜて使用する。[参考:武蔵野美術大学 造形ファイル「膠」https://zokeifile.musabi.ac.jp/%E8%86%A0/]
ルーツを探る。その先に見据える還元
Q:大学では、絵画を中心ではなく、地域に直接足を運んで調査を行う「フィールドワーク」を中心に学ばれたとお伺いしました。どのような経緯でそのような専攻を選ばれたのでしょうか。
私の通っていた秋田公立美術大学は少し特殊で、「油画」や「日本画」といった専攻はないんです。大学にある5つの専攻(ものづくりやデザイン、複合表現など)をすべて横断的に履修した上で、3・4年生になってから1つの専攻に絞るようなシステムでした。私は、コミュニティへのアクセス方法を学べて、デザインというよりもアートという幅広い表現で地域に関われる「アーツ&ルーツ」*を選びました。
*アーツ&ルーツ専攻: 秋田公立美術大学の専攻の一つ。地域社会や歴史のなかで、文化に埋もれている「存在の根っこ(ルーツ)」をフィールドワークによって発掘し、絵画・立体・写真・映像・言語など多種多様なメディアを用いて表現していくことを学ぶ。
Q:もともと「人」やコミュニティそのものに関心があったのでしょうか。
人自体とは別に、他者と関わることや、人同士の関係性が持つ性質が気になっています。それをよく見させてもらったり、自分も体験してみたいとなった時に、自分も「半分当事者になるしかないな」と。
大学には、現地から情報だけを吸い上げて論文を書く従来の文化人類学とは違って、自分の足で現場へ出かけ、自分もその土地の一員になって表現活動をするスタイルの先生方がいました。そういう学びの中で、フィールドワークと言いつつ、暮らしの延長のように滞在制作をするようになったんです。テーマを追いかけて調査に行くというより、飛び込んだ先で自ずと関係性が生まれていくパターンが多かったです。
フィールドワークで何より大事なのは、純粋な気持ちで現地に赴いて、どれだけその土地や人たちのことを持ち帰れるのかだと思います。訪れた先で情報をいただいた方に対して、“どういう還元の仕方ができるのか”。そういう一方的な搾取にならない構造を念頭に置くからこそ、表現や着地点をちゃんと据えた計画も必要でした。
Q:まったく関わりのなかったフィールドの中に飛び込むのは、かなり勇気がいるように感じます。その人たちとしか現れない関係や対話に対してどのように向き合っていたのでしょうか。
専攻の最初の授業として、地名も地図も分からず、電波も届かない田舎にバスで連れて行かれて、2〜3人ずつ降ろされる、というのがありました。迎えのバスが来るまで帰れません、みたいな(笑)。元の場所に戻ってくることも逆算しながら、熊もいるかもしれない、生きるか死ぬかくらいの状況の中で半日ほど。人によってはスケッチをしたり、写真を撮ったり、村人に話しかけたりして、「その地域のことをちゃんと知っておく」という経験をさせてもらえました。その上で、一つメディアを決めて共同制作するグループワークもやっていましたね。普段住んでいる場所とはまったく違うところに飛び込んだ時に、どういう喋り方なら快くお話をしてくれるか、表現の立ち位置がまったく違う人とどうコミュニケーションをとるのか、教えられるというより自分たちで工夫を凝らす期間が長かったです。その中で一人であちこち歩くようになって、それが卒業後も続いている感じで。

山でのフィールドワークの様子
Q:大学のグループワークでは、同じ目的を持った仲間だからこそ、意見や考え方の衝突もありますよね。永沢さんのお父様も生き物を表現される造形作家で、互いの違いを抱えながら、親子展も開催されています。そうした「簡単には距離を置けない関係」で壁にぶつかったとき、どう折り合いをつけてきたのでしょうか。
チームで活動するときは、一度立ち止まって全体を冷静に俯瞰する時間も大切にしていていました。メンバーそれぞれのスキルや関心領域を出し合って、こういう形になりそうだというのを計画する。道中は柔軟に役割分担をして、時には別の専攻の学生に技術的なサポートを頼んだりしながら、お互いの強みを活かして形にしていくこともありました。
それは父との関係でも同じで。父とは生き物に対する価値観は違いますが、釣りや狩猟のように生き物と関わる行為を別々にするかというと、そこは違うんです。同じものを語りたいから同じ空間を共有する、というよりも、根底にあるのは「学びたい」「知りたい」っていう欲求なんですよね。自分だけが知って関わっていても、知りようがないことってある。全然違う立場の意見を持っている人と、同じ経験をして意見を交わすと、自分とは違うパターンを見せてもらえる。自分一人の身体や嗜好性だけでは味わえない世界を、みんなで共有して“財産化”していくことがきっと大切なんだと思うんです。
狩猟と解体の現場で触れる命と切り離せない環境
Q:永沢さんは学生の終わり頃に「マタギ文化」と出会い、「授かった命を余すことなくいただく」というその核にある精神に触れて、ご自身でも狩猟免許を取得し、命の解体現場にも深く関わるようになられたとお伺いしました。生き物の「死」や「解体」というものに対して、どうしても想像が追いつかない部分があります。解体を進めていく際に、生き物が物質に変わっていくような決定的な瞬間や境界はあるのでしょうか。また、動物にもそれらに固有の身体性やパーソナリティはあるのでしょうか。
死生観と科学的な死とは、というところだと思います。たしかにクマを止め刺しして意識がなくなっていく方向に舵を切った瞬間、それまでのこわばりやこちらへのアクション性が消えて、身体が非生物化(物質化)していく感覚はあります。
でも、毛皮を剥いで、肉にして、それをまた解体して骨にして、というふうにどんどん内側に解いていくと、個としての意識はそこで途絶えてしまっているのかもしれないけれど、肉片に入っている細胞の一つ一つがプルプル動いていたりして、まだ生きようとしているのが見えるんですよね。なんだったら、傷がつくと、人体と同じように血肉が熱を持って熱くなるんです、火傷するくらい。蒸気じゃないけれど、熱が外に向けて放出されるみたいな。そういうのを見ていると、どこからどこまでが死か、というのは解体のそばでずっと思うことです。
ただ、そこに「文化的な死」を授けるという意味で、人は「いただきます」をしたり儀式をしたりしてある種のけじめをつけ、ここから先は食肉(物質)としていただくのだと精神的なスイッチを切り替えるのだと思います。
熊にも心があるのかみたいな話はまだまだ未開な部分も多くて知りようがないところですが、その時々で人間のように振る舞う場面があったり、人間が観察しているようで、熊の方から観察されていて、こちらの情報が使われていることがあります。畑の農作物を食べたり、人通りが少ない時間帯に道路を渡ったり。だから、人間の習性も、彼らの体とか精神性に響いて、そのまま性格として宿り、心として備わっていくというのはあると思います。言ってしまえば、私たち人間とも隔てることなく同じような学び方だと思うんですよね。自己完結できなくて、結局途切れることの方が難しくて、隔離する方が難しい。常に環境や状況から影響を受け続けているっていうのが、私たちと動物の世界の接続点なのかなと思います。
境界を越えて生まれる還元
Q:授かった熊を自らが描くことには、表現を通して彼らに何か還元していくような、一つの「循環」を感じます。動物相手だと「自然の中に還っていく循環」がイメージしやすいですが、“人間自身”が他者や社会に対して循環を担う、ということは、永沢さんにとってどのように捉えられているのでしょうか。
いろんな生物が衣食住をこなす中で、相手に近づいて、食べて、咀嚼・分解して、糞や足跡といった落とし物を地上に残していく。そんな「副産物」みたいなものがあるとしたら、自分の中での表現というのは目的ではなくて、そういう副産物に含まれるものだと思っています。自分が食べているのは、食べ物という物理的なものもそうですし、多方から得る自分にはない「経験や情報」だったり、「異形種との交流」だったりもします。それらを摂取したことで、心身がどういうふうに変化していくのかを経過観察をする中で、たまたま絵画ができている。でも、それをただの落とし物として置いたままにはしたくなくて。
動物を狩猟する時に、「なぜここに足跡や糞があるのか」を観察するように、「なぜその絵画が生まれたのか」というのを第三者目線で観察することに重きを置いています。作品は作ったままにせず、展覧会などを通じて公表し、誰かの言葉を通して自分を振り返ることで、その時までの自分をよく観察できる。それが次の行動につながるステップにもなるので。絵を描くことは、そうした私の生活サイクルや循環の一部になっています。
釣りや狩猟を通して、魚や熊といった圧倒的に異なる種族の生き方に触れ、すべてが見えないからこそ色々な手段で相手の世界を知ろうという気持ちが湧いてくるようになりました。研究者の方々のような、人間本意ではない、生き物に対する代弁者の姿勢や態度を通して自分の中にまた新たな視点が入ってくるということも、食事のような気がしていて。そうやって多様な存在から学び、噛み砕き、外へ巡らせていくこと自体が私にとっては生きることであり「循環していくこと」なのかなと思っています。
Q:最近、熊が街中に出没するというニュースが多いと感じます。そのことに関して私たちはどう向き合っていけばいいのか、何かお考えはありますか。
街に進出している熊にとって、山が魅力的ではなくなっている、単純にそういうことだと思うんですよね。もともといた山よりも、人の暮らしのそばだけれど畑や食べ物があるところの方にこだわって降りてきている地域もあって。熊は冬眠するものと思われがちだけど、食べ物があってそうしなくても生きることができるならしなくなる。環境に合わせて柔軟に変化していける部分は、実は人間にかなり近いんですよね。
例えば、地方から街へ出て定住した人に「田舎へ帰れ」とは言えないじゃないですか。さらにそこで生まれた次の世代の子供たちにとっての故郷は、最初からその街で。それと同じで、人里近くで生まれた熊の選択肢には、もはや「山へ帰る」という選択自体が存在しないのだと思います。熊にだけ「山へ帰れ」と求めるのは少し高慢な気もしてしまいます。熊にとって住みよい環境を考えることは、裏を返せば私たちにとって住みよい地域とは何かを振り返ることでもあって。そうした自分たちの暮らしを捉え直す視点を持ちながら、鳥獣被害の対策には関わっています。
Q:作品『山衣をほどく』にも通じるお話ですね。熊の姿が山に見立てられ、その中に街の風景が描かれていますが、「熊の帰る場所」や「人里と熊の生活」の重なりが表現されているのでしょうか。
そうですよね。その絵のモデルは、有害駆除という形で授かることになった男の子の熊なのですが、足の裏の減り具合から、地元の熊ではなく、よそから移ってきた「渡り熊」のようだと教えられました。
あの絵の中に描いてある田んぼや住宅といった人里の圏内のすぐ近くには山林が描かれていると思うんですけど、そのなんとも言えないエリアに、ここまでは人の区域で、この先には入られたくないっていう境界線として有害駆除の罠をかけたりするんです。地元の熊は、それ以上踏み込むとお互いにとって利益がないものとして学んでいますが、渡り熊は、まだ自分の拠点を開拓しに来る熊で。この山の熊とは言い切れない個体だったんですよね。だからこそ、彼が旅してきたであろう、林道も敷いていないような奥山から人里近くの風景まで、その個体が背負ってきた軌跡そのものを描き込みました。

作品『山衣をほどく』 2022年 W3990×D2495×H45mm アクリルガッシュ、岩絵具、熊膠、墨汁、ティッシュ、カンヴァス、木製パネル
Q:有害駆除で熊をいただくことは、食として狩るのとはまた違った形ですが、「受け入れがたい」と感じるような葛藤はありますか。
誰かの暮らしを守るために命を奪う有害駆除は、自分たちの目的のための狩猟とは違って、「誰かの代わりに手を染める」という感覚があります。頼んでくれた人は喜んでくれても、どこか複雑な思いは残りますね。でも、熊にとってみれば、どんな理由であれ「命を奪われた」という事実には変わりがないので。だからこそ、狩猟であれ有害駆除であれ、形はどうあれ授かった命に対しては必ずけじめをつけます。例えばマタギの伝統的な儀式の一つであるケボカイを行い、魂を山の神様にお返しし、その上で美味しくいただく。特に秋田の奥山では、古くから熊に支えられ、熊を大切にしてきた歴史があります。だから「捨てる」という感覚は一切なくて、どんな形で授かった熊であっても、捨てるところなく余すことなく食べる、使い切る。それが私たちの責任であり、命への向き合い方なのだと思います。

狩猟後、解体された熊
絵画への循環とプロセス
Q:マタギの活動やフィールドワークの経験によって得た資料や考えが、永沢さん自身の言葉を通してすぐに絵に結びついているように感じます。永沢さんはどのようなプロセスで制作されているのでしょうか。
描いていく過程でも画面は結構変わりますね。例えば日本画の基本的な描き方だと、設計図としての線描きで造形を決めてから色を乗せていくやり方がありますが、そうしたものと自分の制作工程を比べられると日本画と呼ばれていいのか迷います。岩絵具は確かに使っているんですけど、ミクストメディアですし、技法自体を大切にしようとはあまり思っていなくて。
それよりは、「その絵が完成するまでの自分の感度を、どれくらい良い鮮度で残せるのか」というところに重きを置いています。だから実は、書き終える直前まで人に見られたり話しかけられたりしながら描くのが結構好きなんです(笑)。他人との会話劇も含めて、自分の心情で変化するところがあったら、それごと画面に反映し続けるみたいな。
体験したこと、考えたことをフィールドノートにすべて書き留めています。その上でもう言葉では表せないというところからテーマ性を拾ってキャンバスに向かうんです。ざっくりとした下絵から塗り進めていく中で、「ここにはこういう人がいた方がいいな」「こういう建物があった方がいいな」というのは、その都度増築されていきます。自然そのものが絶えず書き変わっていくように、絵画の中の自然というのも、自分というフィルターを通した環境の影響で変わったのであれば、地形ごと変わる。そういうのは結構ありますね。

作品の構想が書き込まれたフィールドノート
膠がクマと絵を結び、未来の人々へ語り継がれていく

狩猟で得られる動物から抽出した膠
Q:“熊から膠を抽出する”という試みは、熊の絵を描くのに豚の膠を使用することへの違和感がきっかけだったと伺いました。自ら膠を作るようになった今、描くテーマと画材との関係性をどのように捉えられていますか。
私自身がなぜ「絵画」という媒体を選んでいるのか、にも結びついてくる話です。仮に百年後、二百年後、その絵が私の手を離れて、描き手の私の思いが直接届かないところに行った時に、「自分が出会った生き物や、人と生き物が接続していたという証拠」はどう残せるのかと考えていたんです。
そういうところで言うと、狩猟を始めて今は六年目くらいになるんですけど、狩猟に関わることで変化していく心情は、年代ごとに絵の表情や見た目に表れている気がしています。
ただ、画材というのをある種の歴史的な資料として見た時に、膠を自分で作って、自分で乗せるっていう行為が、必然的に必要になってくると思うようになったんですよね。
自分が生き物の食料や画材という素材としての側面と近い暮らし方をするようになって、膠を抽出できる部分(毛皮)が未利用のまま余っているという課題を知りました。そこで、自分は膠に変換し実際に使うことができるようになったんです。それは、自分が「人間としてそこまでその熊と密接でいた」という痕跡にもなりうるし、その絵画の中に動物の身体の一部やDNAが付着していることで、「ここには熊が使われている」と未来に届くかもしれない。もしかしたらそれは、熊という種が滅んだ世界で貴重なサンプルになっているかもしれないし、マタギという人たちがいなくなった世界があったとしたら、「ここまで生き物との関わりが濃い人たちがいたんだ」という証明にもなるかもしれません。

狩猟した動物の血から作ったプルシアンブルー
動物の血から「プルシアンブルー」を作るという試みも同じように、素材としての血を余さず使いたいという文脈の中でのことです。昔の人はそれを飲んだり食べたりしていたけれど、別の消化の仕方として私は、それを化学変化させて画材化し、画面に定着させて残します。自分たちの側に引き込むというか、単に野に放つのではなく、自分のフィールドに持ち込む行為として、血もちゃんと使おうと思ったんです。
そういうふうになっていくと、画材というのも、どう資料として、記録として残せるかの貴重なサンプルだと思えるんです。市販のものを買ってもいいんだろうけれど、それとはまったく意味が違うんだなっていうのが、今の自分の感覚としてありますね。

2026年6月、武蔵野美術大学で行われた永沢碧衣さんの特別講義「風土と生きて、あらわすもの。」の様子
(インタビュー:2026年6月)

