武蔵野美術大学卒業後、渡米し写真家として活動する。アメリカ留学中にエリア51*の撮影をきっかけに、世界各地の奇妙なものやユニークな文化の撮影を始める。世界中の奇妙な事物や風景を一歩引いた視点から撮影・記録する「奇界遺産」シリーズで知られる。
*エリア51とは、ネバダ州レイチェルに位置するアメリカ空軍ネリス試験訓練場内の機密性の高い施設の通称で、陰謀論の標的となっている。
写真家になるまで
はじめのうちは子供の頃に気になったUFOとかUMAとかそういうものをモチーフに実際に現地に行って撮影を行っていました。それがだんだんアジアの変わった寺や廃墟などいろんなテーマに広がっていって、ある段階でそれを『奇界遺産』という本にしてまとめた感じです。
でも、だんだん自分の中で、テーマの枠が場所そのものから、その場所で生きる人々へと広がっていきました。例えば、「中国の洞窟に暮らしている人たちがいるらしい」と聞いて、そういう場所へ行くようになったんです。
そうしているうちに、どうしても人と関わることが増えてきました。

中国の洞窟に住んでいる方の写真
最初は照れがあったんですよね。自分はいわゆる「写真家になろう」と思って写真家になった人ではないから、美しくポートレートを撮るとか、写真家らしく振る舞うことに少し抵抗があったんです。真面目に写真をやっている人に申し訳ないなと思っていました。でも、途中から自分の本以外の雑誌でも仕事をするようになって、世の中には自分が名乗らなくても「写真家」と呼ばれるようになりました。
異物として向き合う
例えば少数民族の写真を撮るようなときに、「笑ってください」とお願いすることはまずありません。なるべくそのままでいてほしい、ナチュラルでいてほしいと伝えます。カメラを向けた瞬間にニコッと笑われると、それはある種、観光客に向けた表情になってしまうんですよ。
もちろん考え方はいろいろあります。撮影前になるべくコミュニケーションを取って、受け入れてもらい、友達のような関係になってから撮る人もいます。それはそれで否定するつもりはないし、いい方法だと思います。
ただ、正直なところコミュニケーションを取るにしても下心があるわけじゃないですか。子どもをあやしたり、おじちゃんのよく分からない話で笑ったりしても、本当の目的は最後に写真を撮りたいということです。その下心が前提にある以上、そのコミュニケーションはどこか嘘っぽいというか、誠実ではない気がするんです。だから、向こうから「なんだこいつ」と思われたり、少し睨まれたり、異物として見られているくらいの状態で撮るほうが、むしろ誠実なんじゃないかと感じることもあります。
それよりも、実際には警戒されて受け入れてもらえなかった、その関係性の中で撮ったという視線こそが、彼らが外部に向けている本当の眼差しなんじゃないかと思っています。そもそも、僕たちは不均衡な関係を利用して撮影に行っているわけです。こちらはお金を持っていて、飛行機で行くことができて、強いパスポートやビザを持っている。上から目線でいるつもりはまったくないけれど、構造的にはそうなってしまうんです。
あとはよく聞かれるのが「お金を払っているのか」ということ。当たり前に払います。もちろん、向こうが求めなければ払わない場合もありますが、それでも最低限お土産くらいは渡します。そういうと、割と驚かれるというか、がっかりする人もいます。
要は、山奥で暮らす少数民族には物欲がなく、金品は求めないという、「素朴な少数民族」というステレオタイプからずれるからなんですね。でも例えば日本で誰かモデルを依頼したら対価を払うように、彼らに対しても当然同じように振る舞うべきだと思います。結局のところ、同じ人間でそこに大差はありません。
欧米のカメラマンの中には、被写体にかなり演出を求める人もいます。「弓矢を持って」と指示したりするんですね。すると何が起こるかというと、次に誰かが撮影に来たとき、頼んでもいないのに向こうから弓矢を構えるようになる。そんなのは嘘じゃないですか。彼らが「彼ら自身」を演じるようになってしまうんです。
もちろん、「ナチュラル」ということ自体も幻想ではあります。でも、少なくとも対等な、よそ者として向き合ったときの眼差し、そのままでいいと思っています。そういうスタンスで撮るようにしています。
無意識の中に潜む編集
撮影する上で主観があるのは、僕はいいと思うんです。むしろ、自分はニュートラルだと思い込むことのほうが危険なんですよね。実際には誰しも何かしら偏っているわけで、「あの人たちはこうだ」「この民族はこうだ」という固定観念を持って現地へ入ってしまうと、その先入観を無意識のうちに写真へ投影してしまう。
例えば「彼らの暮らしは素朴であるべきだ」と思っていたら、携帯電話で話している姿を見ても撮らないわけです。自分の撮影でも、もちろんそういうことがゼロではありません。例えば、目の前に伝統的な衣装を着た人がいて、その隣に携帯電話で話している現地のおじさんがいたとします。撮ろうとしたとき、多くの場合、おじさんはフレームから外してしまう。なぜなら、見せたいのは伝統衣装を着た人だからです。でも、本当のリアリティは、そのおじさんの存在だとも言えるわけです。それを写すかどうかはテーマ次第ですが、つまり私たちが見ているものは常に、意識的にせよ無意識的にせよ、編集された何かだということです。
基本的にポストプロダクションは撮影後の作業だと思われていますが、最初の編集はシャッターを切った瞬間から始まっています。そのことを自分自身が自覚していないと危ないと思っています。

伝統的な衣装を着た人の横に現代的な服装をしている人の写真
言語に潜む壁
雪男(イエティ)の話もそうです。散々語られ、使い古されたような話だと思っていたんですが、現地で聞くと全然そういうことじゃない。彼らにとっては精霊や神様に近い存在なんです。「この前、山のあそこで歩いているのを見たよ」と、普通に話すんですよ。「それって熊のことか」と聞くと、「いや、熊じゃない」と言う。結局、それが何なのかはよく分からない。
そこで分かったのは、彼らが持っている概念と、こちらが持っている概念を正確に翻訳できる言葉がないということなんです。それなのに、こちらは自分たちの理解できる枠組みに当てはめようとして、「それは未確認動物なんだ」と解釈してしまう。
でも、丁寧に話を聞いていくと、本当はそういうことではない。それは現地へ行って初めて分かったことでした。
撮影者の存在が与える影響
本当にナチュラルな姿を撮ろうと思ったら、自分がその場から消えなければいけないんです。でも、自分がそこに関わる時点で、その場所はもう自然ではなくなってしまう。それはどうやっても避けられません。
実際、僕が行くだけで向こうが色めき立って、場の空気が変わってしまうこともあります。例えば、バヌアツで半裸に近い姿で暮らす人たちを撮影したことがあります。そこでどうしてもドローンを飛ばして撮りたい場面があったんですが、そのとき、自分がやっていることが彼らの文化に影響を与えてしまう怖さを強く感じました。

バヌアツの半裸に近い恰好をしている方の生活写真
バヌアツは観光客がほとんど来ない場所です。彼らにとってドローンは初めて見るもので、僕はヒーローのように見られたり、神様のように扱われたりすることもありました。ある意味では、自分が文明を持ち込んでしまうことになるんです。
大げさかもしれませんが、僕を見た子どもが「あの人はあんな面白そうなものを持っていて、服もちゃんと着ているのに、どうして自分たちは裸で暮らしているんだろう」と疑問を抱いたとしたら、その時点で僕はもう彼らの文化に干渉してしまっている。それ自体が悪いというわけではありません。でも、そうした影響を与えてしまうことには、少し責任を感じています。
やりたいのはジャーナリストではない
報道になると必ずオピニオンが入ってきます。でも、自分はそういう立場ではありません。結果的にジャーナリスティックな仕事になることはありますが、例えば旧ソ連が465回もの核実験を行っていたことや、それが世界でもあまり知られていないことを取り上げると、「そんな場所を教えてくれてありがとうございます」と言われることがあります。すると、何かいいことをしたような気持ちになってしまう。感謝の言葉をいただくと、自分が何か正しいことをしていると、錯覚してしまうんですね。でも、その「正しさ」は危ないと思ったんです。
そうではなく、僕が言いたいのは「ソ連はひどいですよね」ということではないんです。一歩引いた立場から、一人の旅人としてその場所を訪れ、「歴史の流れの中でどうしてこうなったのか」を見たいだけなんです。
それ以上踏み込んで「ソ連は悪かった」と判断し始めると、「そもそもソ連が核開発を始めたのはアメリカと競い合いっていたからだ」という話になります。すると今度はアメリカも包括的に考えなければいけない。米ソ以前に「ナチスがミサイルを作っていた」という話までどんどん広がっていく。
だから、ある意味では僕は無責任なんですよ。ジャーナリストはそこへ踏み込んで、一つ一つ徹底的に調べ上げる。それは仕事として非常に価値のあることです。でも僕がやりたいのは、その一歩手前なんです。人に知られていない場所を、ジャーナリストの視点でもなく、一旅人として撮影し、それを広く見てもらうこと。
もし僕が強いオピニオンを持ったジャーナリストだったら、今のような活動にはなっていなかったと思います。本を出しても、一部の熱心な読者には支持されるでしょう。でもそういう活動じゃないからこそリーチする層もある。テレビに出ているのも結局はそれで、いかにやりたいことを続けつつ、それを多くの人に見てもらうかということです。

写真を撮っている佐藤さん
(インタビュー:2026年6月)

