すべてを受け入れる覚悟が未来を創る

武蔵野美術大学

すべてを受け入れる覚悟が未来を創る

PEOPLEこの人に取材しました!

小橋賢児さん

クリエイティブディレクター

子役として8歳で芸能界入りし、以降数多くのドラマや映画に出演。20代後半、自らの在り方を見つめ直すために俳優業を休止し、世界各国を旅する。ネパールでの出会いやアメリカでの生活を経て、"自分を生きる"という価値観を見出す。2009年よりイベントプロデュースを本格化。2013年には花火と音楽の融合イベント「STAR ISLAND」を立ち上げ、演出・総合プロデュースを担う。2025年開催の大阪・関西万博では催事企画プロデューサーとしても参加。既存の枠にとらわれない創造力と、世界基準の感性で、人と人、人と空間の“つながり”をデザインし続けている。そんな小橋さんにお話を聞いた。

芸能界で過ごした若手時代

8歳の時にテレビの世界に入りました。両親が共働きで、貧乏な鍵っ子だったんです。いつも一人で過ごしていたので、毎日が冒険のようで、「思いついたら自分で行動する」という癖がつきました。

ある時、バラエティ番組を見ていたら「新レギュラー募集中」とテロップが流れたんです。観覧希望の募集だと勘違いしてハガキを送ったところ、2週間後にオーディションの通知が届きました。「受かったら出演できるよ」と言われ、好きな番組を“見に行ける”と思い込んで、オーディションを受けに行きました。1600人くらいいたんですが、たまたま合格してしまって。本当に、思いついたらすぐ行動したからこそ、芸能界に入ることができたんだと思います。

16歳くらいまでは全然うまくいきませんでしたが、数多くのオーディションを受けてきた中で、たった一度だけ「お前、面白いね」と評価してくれる監督さんがいたんです。その作品がたまたま大ヒットして、そこから少しずつテレビに出る機会が増えていきました。

テレビに出るようになると、社会の荒波に揉まれるのと同じように、世界中のいろんな人から見られる立場になります。「芸能人だからこういうことはしちゃいけない」「芸能人だからこういう場所に行っちゃいけない」と、自分で自分を縛るようになっていきました。いろんなことが “have to” になり、“want to”で動くことができなくなっていったんです。自分の“want to”が見つからないまま、“have to”だけで生きてしまっていました。

20代半ばから30代にかけて、「このまま芸能界にしがみついていれば、それなりの地位や名誉、お金は得られるかもしれない。でも、それは自分の心を無視して生きることになるのではないか」と思うようになりました。そう考えたら怖くなって、現状を変えるために、少しずつ環境を変えていったんです。

ネパールで感じた人間力と劣等感

26歳の時、ひとりでネパールを訪れた際に、偶然同い年の男性と出会ったんです。彼の家は、娘を学校に通わせるお金もないほど貧しい状況でしたが、それでも家族を懸命に養っていました。奥さんと子どもと一緒に小さな家で暮らしていて、僕を家に招いて食事までご馳走してくれました。片言の英語で話しながら、彼の背中が人間としてとても大きく感じられて、思わず号泣してしまったんです。その瞬間、自分が大切にしているつもりだった価値観や、守ろうとしていた芸能界での立場が、実はとても小さなものに思えてきました。人間としてどうあるか、その“在り方”のほうがずっと大事なんだと強く感じたんです。彼からは、とても強い“生きる力”と人間力を感じました。一方で、僕は未来を怖がるばかりで、今を本気で生きていなかった。自分の人間力の弱さに、劣等感を覚えました。それまで自分に付き纏っていた嘘の感情が、日本に戻った時に全部露わになって、溶けていくような感覚がありました。そこから、本当に今いる場所から逃げたいと思うようになり、27歳の時にアメリカへ向かったんです。

国境を越えた様々な出会い

アメリカに留学した時に、2つ決めていたことがありました。1つは外国人の友だちをつくって、一緒にアメリカを車で横断すること。もう1つは、英語で喧嘩できるくらい話せるようになること。結果的にその両方が有難いことに叶ったんです。

最初はメキシコに行き、その後LAに向かって、いろんな場所を巡りました。最後はマイアミで、街を歩いていたら偶然友だちのDJが現れて、「今、世界中からDJが来ているよ。大きなフェスをやっているから行ってみなよ」と言うんです。これがウルトラ・ミュージック・フェスティバル(ULTRA MUSIC FESTIVAL)*との出会いでした。

青空の下で巨大なLEDスクリーンが輝き、みんなが踊っていました。当時、僕らの芸能界では、クラブやダンスミュージックの世界は禁止だと言われる時代で、イメージ的にも良くなく、悪の巣窟だとまで言われていました。しかし実際の現場では、老若男女、国境を越え、音楽を共通言語にして人々の心が開かれていたんです。様々な境遇の人が集まっていて、昨日リストラされた人もいれば、失恋中の人もいるかもしれない。その人たちがいろんな笑顔に出会い、また自分の笑顔にも出会い、いろんな自分を発見していくんですよね。

僕も自分探しをしていた時期だったので、「世界にはこんなにもいろんな世界があるんだ。いろんな人々がいるんだ。そして、自分の中にもこんなにたくさんの感情があるんだ」ということに気づきました。それで、もっと世界中のフェスを見てみたいと思ったんです。

*マイアミでスタートした世界最大級の都市型ダンスミュージックフェスティバル。

スターアイランド立ち上げの経緯

アメリカで体験したウルトラに衝撃を受け、日本でも開催したいという思いから、僕は「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクターとして参加することになりました。

ULTRA JAPAN」を1年目に開催したとき、どこかエンディングが締まらず、物足りなさを感じていたんです。そこで2年目からは花火を上げたいと考えるようになりました。

STAR ISLAND」を立ち上げる前、海外で花火を見たことがあるんですが、見た目はとても華やかで美しい一方で、日本の花火のように体までドーンと響く音や振動がなく、どこか物足りなさを感じました。また、日本の花火師の方々と話す中で、近年は協賛金集めのハードルや警備コストの上昇などにより、無料の花火大会が存続しにくくなっている現状も知りました。

ただ、無料だったものを単に有料化するだけでは、観客にとって納得感がありません。だからこそ、花火という伝統を受け継ぎながらも、お金を払ってでも体験したいと思ってもらえる新しい価値へと進化させたいと考えました。

そこで、日本の伝統花火に、3Dサウンドやライティングなどの最先端テクノロジー、そしてショーパフォーマンスを組み合わせて生まれたのが「STAR ISLAND」だったんです。

異文化を理解したシンガポールでの「STAR ISLAND

2019年1231日、シンガポールのマリーナ・ベイで「STAR ISLAND」のカウントダウンが開催されました。音と光は夜12時までしか出してはいけないと指示していたのに、現地スタッフはそのルールをガンガン無視して、夜中でもホテルにレーザーを当てまくっていたんです。「このぐらい図太くなきゃできないんだな」と思いましたし、何かを超えていくって、こういうことなんだと感じました。

一方で、日本人はリスクヘッジばかりして、迷惑をかけないように行動しがちです。それ自体はとても良い文化なんですが、「この人が言ってたから」「あの人が言ってたから」と、全員の言葉をそのまま聞いていると、最終的にはできないという答えしか返ってこなくなるんです。言われた側も、その方が楽だから「ダメって言われたのでやめました」で済ませてしまうんですよね。

でも、ビジョンを持っている人は、「これはダメだけど、ルールは変えられないけれど、別のやり方があるんじゃないか」と、別の道を探します。そうすると、当初やりたかったこと以上の答えが見つかったりする。こうした積み重ねが、結果として誰も見たことのない、かつ体験したことのないものを生み出す力に繋がるんです。

日本人は何事にも真面目で、言われた通りにやりすぎて、自分たちで首を絞めてしまうことがある。でも、海外の人々の適当さは大胆さにもつながり、結果的に素晴らしいクリエイションを生む力になると感じました。

同じビジョンを持つことの難しさ

同じビジョンを持つこと、これが本当に難しくて。例えば映画監督であっても、監督が持っているビジョンを、スタッフ全員が最初から同じように共有して進むことは、なかなかできないと思うんです。他人と働く時、その人にしかない原体験や世界観があって、それは長い時間をかけて構想し、トライアンドエラーを重ねながらつくられていくものだからです。

だから一番大事なのは、リーダーであるべき人が、自分の情熱を軽率に諦めないことだと思います。「諦めない」というのは、しつこく押し通すという意味ではなく、どんな方法であってもチャレンジし続ける姿を見せる、ということです。

もう1つは、誰しもモチベーションが続かなかったり、どこかで迷ってしまう瞬間があるということです。そういう時には、自分が前に進みながらも、もう一つの視点で仲間の背中をちゃんと見ておくことが必要です。他の人が気持ちの面で落ちていたり、動いてはいるけれど間違った方向に進んでいるかもしれない。

自分としては集中してやっているつもりでも、やっぱりお互いを見合うことが大切なんですよね。寄って引いて、寄って引いて。もしどこかが滞っているなら、丁寧に対話して、時には情熱を込めて向き合う。ほんの些細なことで、全体の流れは大きく変わっていくと思うんです。

相手の考えを受け入れ、見え方を少しずつ変えていく

準備期間が3ヶ月しかない中で指名された仕事が、東京五輪の閉会式の総合演出でした。世間は、裏側の事情とは関係なく、あくまで作品としてのクオリティで評価するため、「時間が少なかった」「予算が足りなかった」なんて言い訳は当然できません。例えるなら、「地雷がいっぱいあるけど、その中を駆け抜けて」と言われているような感覚で、自分本位な姿勢だけでは決してうまくいきません。だからこそ、ある程度委ねること信じることが必要でした。

この仕事に関わると決めた時、ひとつだけ自分の中で覚悟したことがあります。それは、「どんな流れが来ても、すべてを受け入れる」という姿勢で臨むことでした。

いざ蓋を開けてみると、振り向けば、自分が知らないスタッフが1000人くらいいるんです。いろんなタイプの人がいて当然ですが、普段一緒にやりたい仲間だけではありません。僕のことを笑っている人もいれば、「ここで自分が出し抜いてやろう」と思っている人もいる。そんなさまざまな思惑が渦巻く中で、自分の主観だけで判断していたら、「あいつがムカつく」「こいつは受け入れられない」と、どんどんカオスになっていきます。

だから、相手を変えようとするのではなく、自分自身が変わるつもりで一つひとつを受け止めていくことが大切でした。時には悔しいけれど、相手が圧倒的に理不尽だとしても、自分から頭を下げて会話する。相手も同じように他人を恐れたり、バリアを張ったりしているわけで、こちらが先に頭を下げることで、相手の中の僕の見え方が変わる。そうすると、僕の中の相手の見え方も変わっていく。

そうした一つひとつを、時間がない中でも丁寧に紡いでいくと、心がほぐれ、つながっていきます。そして、その人がこちらを向いて全力で頑張ってくれた姿を見た時、「もし自分がプライドを捨てず抵抗していたら、この景色は見えなかった」と思わされるような、号泣するほどの瞬間がたくさんありました。

すべてを受け入れる覚悟―人事を尽くして天命を待つ―

ただでさえ2回しかないリハーサルのうち1回が雷で中止でした。しかも、衣装はデザイナーさんから借りた大事なものを絶対に濡らせられない中で雨予報は80%。国立競技場では閉会式までリハーサルができずに、当日の朝まで競技が行われていました。照明だけは事前に記録していたけれど、その記録も土砂降りですべて消えてしまったんです。当然スタッフは大激怒し、そこからさらに停電。復旧は翌朝になると言われ、当日まで照明すらも確認できない、まさにカオスの状態でした。

天気予報はずっと雨。「もう最悪だ」とみんなが不安に思っている中で、不安になっている自分がいました。でもそこで我に返った時、「すべてを受け入れると決めたじゃないか」と思い出し、いま目の前の現実に翻弄されて、未来の天気を不安がる自分は、全然すべてを受け入れていないことに気づきました。

「人事を尽くして天命を待つ」。改めてすべてを受け入れると天に誓いました。携帯をオフにして天気予報を見ずに、ただただすべてを受け入れるのみ。その結果、当日昼間のリハーサルの時点で空は嘘のように晴れ、本番も一滴も雨が降らないという奇跡が起こりました。ここで重要なのは、結果的に晴れただけであって、例え雨だったとしても受け入れられる状態になっていたことだと思います。つまり僕の心が変わっていたこと、それが一番の気づきでした。

すべてを受け入れると言っても、それは「何もしない」ことでは決してないです。揉めている現場では、仲裁に入る必要もあるし、リーダーとして、全力疾走し続けることです。 ポイントは「諦めないこと」。でも「しつこく同じ場所にいること」ではなく、山登りに例えると、「頂上に登った時の感覚」を大事にして、その感覚に近づくように、道を変えてもいいです。帰り道で見つけた一輪の花に感動するかもしれないです。最初に思っていた山より高い山に気づくかもしれないです。

首の皮一枚で繋がるものづくりの現場

演出を考える中で、閉会式の最後に「What a Wonderful World」をどうしてもみんなで歌いたかったんです。でも海外楽曲の申請は難しく、権利者も複数いる中で、当日の朝になってスタッフから「最後の1人の許可が取れない」と伝えられました。

それでも、最終的には本当にギリギリのタイミングで許可が下りて、無事に本番で使うことができた。こうしたように、ものづくりの現場というのは、“首の皮一枚”でつながっているような世界なんです。そのひとつひとつの積み重ねが、結果として奇跡を生み出しているんだと思います。

大きなチームを動かすために

リーダーとして、自ら率先して誰よりも動くことを大事にしています。その姿を見て、気持ちが高まっていくスタッフもいます。結局、行動で見せるしかないんです。

「できない」と思っていたことが「できる」に変わる瞬間があります。例えば、冷たい水に飛び込むのは怖いけれど、30秒〜1分もすれば慣れて、世界の見え方が変わる、あの現象と同じです。

STAR ISLAND」を立ち上げた1年目も、チケットが1ヶ月前の時点で3000枚しか売れていない状況でしたが、とにかくできることは全部やりました。ポスティングをしたり、汗をかいてできる限りのことをやっていると、思いもよらないところから奇跡が舞い込んでくることがあるんです。

万博後のビジョンと若者へのメッセージ

僕は今年、2025年の大阪万博で催事企画プロデューサーを務めています。万博は世界中から人が集まる舞台です。その中で、日本が持つ「結ぶ」文化や、多様性を受け入れる精神を発信し、新しい未来をともに創っていくことが大切だと思っています。

万博は、いわゆるゴールではなく、大きな機会です。これまでのイベントは1日、2日で非日常をつくってきましたが、万博はそれとは違い、日常に出会う街だと捉えています。だからこそ、これからは「街」における体験設計をもっとしていきたいと思っています。

今は建築ファーストで、建物が先にできてから体験を考えることが多い。でも、本来は人の思いや想像が先にあり、それが形になるものです。体験設計からまちづくりを始めていきたいです。

「クリエイティブディレクターになりたい」「イベントプロデューサーになりたい」といった夢を持つことは素晴らしいですが、肩書きというに囚われる必要はありません。大切なのは、その根底にある思いであり、「人々の気づきのきっかけをつくりたい」「人生を豊かにしたい」といった本質的な動機です。職業や肩書きにこだわるのではなく、失恋や不条理のような予想外の経験こそが、自分でも想像していなかった未来へとつながることがあります。志を胸にしまいながら、時には遠回りに見える道を歩くことも必要だと思います。

世界を繋げる祭りに向けて

これから世界のさまざまな人たちと関わっていく時代において、多様な人々がつながり合い、共に何かをつくっていくことが「祭り」の構造だと思います。祭りの本質は“願い”や“感謝”です。自然への感謝、五穀豊穣への祈り、地域や世代をつなぎ、文化を継承していく力があります。人はそれぞれの持ち場を離れ、何者でもない存在が“何者か”になる。日常から少し離れ、自分とは違う役割を生きることで、本当の自分に出会う。それこそが祭りの本質です。今、まさに祭りがもう一度必要とされる時代になっていると感じています。

(インタビュー:2025年6月)

Related Articles関連記事

共生
「あなたがやらなきゃ、誰がやるの?」 ──上野千鶴子、19歳のあなたに手渡したいこと

共生

「あなたがやらなきゃ、誰がやるの?」 ──上野千鶴子、19歳のあなたに手渡したいこと

社会学者
上野千鶴子さん 

本企画では、美術大学に通う4人の女子学生と社会学者・上野千鶴子氏による対談を実施しました。現代社会におけるジェンダーの問題をそれぞれの視点から語っています。アートの世界で生きること、作品を通じて伝えたいこと、そして女の子として生きる日常の中…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学

どうしてチョウを守るのか

共生

どうしてチョウを守るのか

NPO法人日本チョウ類保全協会事務局長
中村康弘さん

日本チョウ類保全協会は絶滅危惧種のチョウや、チョウの暮らす森や草原の保全活動、人々がチョウと触れ合うための活動などを通し、日本全国の生物多様性を守ることを目指している。そうした取り組みを通して見えてくる社会について、自然と私たちの「共生」を…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

大都市「東京」を林業から見つめる

共生

大都市「東京」を林業から見つめる

東京チェンソーズ コミュニケーション事業部
木田正人さん

都市と自然、人と自然——異なる存在が互いを尊重し合い、調和の中で共に生きる「共生」。私たちはこのテーマを軸に、東京・檜原村を拠点に持続可能な林業を実践する〈東京チェンソーズ〉の木田正人さんに取材を行いました。森に身を置きながら、都市とのつな…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

生理のバリアをなくす—大阪大学MeWプロジェクトの挑戦

共生

生理のバリアをなくす—大阪大学MeWプロジェクトの挑戦

大阪大学国際協力学研究室研究生
アインさん

月経に関する話題は、長い間、社会的なタブーや偏見の対象となってきました。しかし、月経は誰にとっても日常の一部であり、それを自然なものとして受け入れる社会が求められています。大阪大学で発足したMeWプロジェクトは、このような月経に関する課題に…(続きを見る)

私たちが
取材しました

大阪大学

カテゴリを通した先にいるあなたと私

共生

カテゴリを通した先にいるあなたと私

アーティスト
百瀬文(ももせあや)さん

コロナ渦で急速に発達したSNSによって、私たちは人々との関係性や距離感についていま一度考えなくてはならなくなった。その中で、百瀬文さんはアーティストとして変化していく社会と関わり続けている。このインタビューでは、彼女の作品やこれまでの活動の…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

ありのままの私が向き合うカテゴライズされる私

共生

ありのままの私が向き合うカテゴライズされる私

歌手、バーの経営者
ギャランティーク和恵さん

歌手や、バーの経営など多岐にわたる活動をしているギャランティーク和恵さんに、個々の表現の自由が尊重されている昨今で、自分がカテゴライズされることや、ありのままの自分を多角的に見せるにはどのようにするかという視点から、お話を伺いました。私たち…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

武蔵野美術大学

あったかいお湯とあったかいコミュニティ

共生

あったかいお湯とあったかいコミュニティ

黄金湯店主・オーナー
新保朋子さん

黄金湯を、地元の方から銭湯を愛する方、銭湯に馴染みのない方まで様々な人が楽しめる新しい銭湯として経営し、日本の銭湯文化を未来に繋いでいくことを目指しています。新保さんが打ち出す新たな銭湯のかたちを伺う中で、銭湯と人との繋がり、ひいては新保さ…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

パレスチナ~レンズの向こうの「第二の家族」

共生

パレスチナ~レンズの向こうの「第二の家族」

写真家
高橋美香さん

高橋美香さんは2000年からパレスチナに通い始め、そこで出会った「第二の家族」であるママとマハの二つの家庭での滞在を通してその日常を写真に収めています。この二つの家庭はどちらもイスラエルに隣接するパレスチナ自治区の、ヨルダン川西岸地区にあり…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

誰かの快は誰かの不快

共生

誰かの快は誰かの不快

感覚過敏研究所所長
加藤路瑛さん

私たちの班のメンバーの中には感覚過敏(具体的には嗅覚・味覚・聴覚過敏)があり、家族や周りの人と感覚に差があることで日常生活の中で苦痛を感じることがある人がいた。しかしこの班のメンバーはこれまで感覚過敏を持つ人が身近におらず親にもなかなか言え…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

海苔は食べるもの? 〜もう一つの視点で世界をのぞくデザイナー〜

共生

海苔は食べるもの? 〜もう一つの視点で世界をのぞくデザイナー〜

we+
林登志也さん 安藤北斗さん

we+は、 自然や社会環境からデザインの可能性を考え、歴史や自然、人工などの融合の模索をされている、コンテンポラリーデザインスタジオです。設立者は林登志也さん・安藤北斗さん。今年のインタビューテーマである「共生」という言葉すらもフラットな視…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

異なる文化のための建築:森俊子さんによるアプローチ

共生

異なる文化のための建築:森俊子さんによるアプローチ

建築家・ハーバード大学大学院デザイン学部建築科ロバートP ハバード実務建築教授
森俊子さん

異なるルーツや文化の人々の為に手がけたセネガルでの建築プロジェクトを中心に、教育者からの視点で、建築、文化、共生においての考え方について伺いました。 写真©Toshiko Mori トップ写真©Toshiko Mori…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学

やはり、味はムシできない

共生

やはり、味はムシできない

Bistro RIKYU オーナー
角田健一さん

角田さんは21歳から2年間飲食関連の専門学校通い、一度は飲食業も離れるも、神奈川県茅ケ崎市のレストランで10年以上シェフを務める。とあるイベントで昆虫食に触れたことを機に、2022年2月に地元である藤沢市に、昆虫食も扱うカフェ&ビストロ「B…(続きを見る)

私たちが
取材しました

武蔵野美術大学